[ オピニオン ]
(2018/10/29 05:00)
横浜市の中心部である中区周辺は、異国情緒にあふれている。本牧地区は現在でも米軍住宅があるし、山手地区には「フランス山」と呼ばれる観光地もある。横浜港とあいまって表面上は開放的な印象もあるものの、なにかもの哀しい感じもする。
横浜大空襲で全市の約6割の11万9000軒もの建物が焼かれた横浜に、戦後は米国軍による接収が行われた。接収面積は約46万2000平方メートル。沖縄を除くと日本国の接収面積の実に約62%を占めたという。
「クイーンの塔」として親しまれていた横浜税関は米国第8軍司令部となった。横浜スタジアムのある横浜公園には米軍のチャペルセンターがおかれ、野球場は米軍専用となって、「ゲーリック球場」と呼ばれた。
横浜の心臓部ともいうべき港湾施設も接収され、進駐軍兵士が幅をきかせた町で人々は打ちひしがれた。1951年、平沼亮三横浜市長を中心に、横浜市復興建設会議がおかれ、接収解除への働きかけが始まり、同年サンフランシスコ平和条約が締結され、接収解除が進み始める。
綴られた歴史の糸を一つ一つ解きほぐしていくと、さまざまなドラマがある。横浜の「もの哀しさ」の背景には、悲しい歴史が影を落としている。
(2018/10/29 05:00)