[ オピニオン ]
(2016/9/29 05:00)
安倍晋三首相の祖父である岸信介元首相は1957年5月、我が国の首相として初めてインドを訪問した。その折、外務省の関係者は、ビルマ(現ミャンマー)からインドの国境沿いに延びるアラカン山脈を越えると「人心はウエットでなくドライ」とし、「対等な関係」演出への配慮を進言したと聞く。
岸首相訪印後の同年10月、今度はインドのジャワハルラル・ネルー首相が来日した。その時、シチズン時計製の腕時計を手にした同首相は帰国後、腕時計国産化に向けた日本の協力を要請した。国産化を担うために設立された、国営ヒンドスタン・マシーン・ツール(HMT)の子会社であるHMTウオッチに対し、シチズン時計が我が国の政府開発援助(ODA)の下で、協力することになった。当時の山田栄一社長は「欧米を向いていた印度が日本の技術に対する認識を改めた。この協力プロジェクトは、今後の日本の工業発展のキッカケとなる」旨を同社社内報「ライフ」に述べている。
当初、HMTウオッチからの研修員受け入れは約80人、日本からの指導者は50名を超えた。シチズンから部品を輸入し、1961年7月から、HMTウオッチで組み立てを開始。その第1号はネルー首相に贈られた。HMTウオッチの腕時計は大好評、との現地報告がライフに寄せられた。その後、同社は部品の製造も始め、両社の協力協定締結はクオーツ時計を含め、5回を数え、1980年代まで続いた。シチズンは研修者向けの宿舎・食堂を整備、本社のある東京・田無地域を含め、さまざまな交流イベントも行われた。地味ながら、この協力は、我が国と非同盟運動を主導したインドとの象徴的プロジェクトとなった。
日本企業の直接投資先として、中国の魅力が薄れるのとは対照的に、インドが注目されてきている。同国は、2014年に発足した現モディ政権の積極的な外資誘致策、原油価格の下落などによる高インフレの終息といった環境下で、7%前後の経済成長を続けている。人口は約13億人。人口構成はピラミッド型で、中央値は25歳、15-59歳の労働人口は30年には10億人を超えるとみられている。中間所得層の台頭も目立ち、BOP(ボトム・オブ・ピラミッド)と称される消費市場も広がっている。
国際協力銀行(JBIC)が毎年実施している日本企業を対象とした海外直接投資アンケートでは、向こう3年程度の有望事業展開先国・地域として、インドは14年度、15年度とも第1位。10年程度先の長期的な有望投資先としても10年度から第1位を維持している。大変な人気である。
しかし、インドでのビジネスは容易ではない、との声は強い。JBICのアンケートでも、インフラの未整備、税制の改正(中央政府と各州の諸税を統合した物品・サービス税導入)の行方など難題が多く、収益確保には相当な我慢が必要とされる。契約などは欧米並みの厳格さだ。一方で、汚職も多い。
成功例もある。1981年代に始まった、スズキ自動車と同国重工業省の合弁による日本でいう軽自動車の「マルチ」の国産化計画だ。このプロジェクト立ち上げ時の事務所は、ネルー首相の娘、インディラ・ガンディー首相の次男で不幸にも航空事故死したサンジャイ氏が手掛けた国民車計画で造成されたデリー郊外のテストコース内にあった。取材で訪問時、外気に劣らぬ熱気に満ちていた。ボンベイ(現ムンバイ)の初老のタクシー運転者が「自分もできることならマルチ車の購買予約をしたい」と言っていたのが妙に耳に残っている。合弁会社が02年にスズキの子会社となり、インド事業はスズキの大きな柱になっている。マルチ・スズキは乗用車販売で断トツのトップの座を守り続けている。
HMTウオッチは新規参入したタタ財閥のタイタンなどとの競争で業績が悪化。2014年の総選挙でBJP(インド人民党)が勝利し、その後発足したモディ政権はHMTウオッチに引導を渡し、同社は今月消滅してしまった。現在、インドの主要都市での地下鉄建設で、我が国のODA実施による協力などが相次いではいるが、両国の経済関係の発展を図る上で、HMTウオッチ、マルチ車といった時代を反映する目に見える象徴的なプロジェクトの具体化が望ましい。
両国間では05年以降、首脳の相互訪問が定例化している。安倍首相は、07年8月、14年1月、15年12月とこれまでに3回訪印。年内には、モディ首相が訪日する予定だ。その際、ムンバイ・アーメダバード間の高速鉄道建設の推進をより具体化し、同国への我が国の新幹線技術の導入といった新しい経済協力の時が刻まれるのを期待したい。
(客員論説委員・中村悦二)
(2016/9/29 05:00)