(2020/6/9 05:00)
新型コロナウイルスに伴う緊急事態宣言は解除されたものの、経済活動の先行きは不透明だ。しかし、各企業は新たな歩みを始めている。長い歴史の中でさまざまな危機を乗り越え、安定した成長を続けてきたモノづくり企業に、変わらぬ理念や、これから変わっていくべきモノづくりへの姿勢について寄稿していただいた。
コロナゲリラ戦争への長寿企業の戦い方
セラリカNODA社長 野田泰三氏
現在が大脳情報系(人工)と遺伝子情報系(自然)が対決している全面的な「コロナゲリラ戦争」であることをまず自覚しよう。実態以上に「情報」が絶対な、現代の大脳情報系社会の中で、遺伝子情報系の目に見えない敵とどのように戦うかを考えるには、より「本質的な思考」が求められる。大空を飛ぶ「チョウ」と「ジェット機」を比べると当然ジェット機の「勝ち」なのだが、コロナ危機以来アッという間にジェット機は飛ばなくなっている。それもチョウよりも微少なコロナウイルスに負けることで。
アフガニスタンで最も尊敬される日本人医師、故・中村哲さんは、爆弾の度々落ちてくる内戦の中でも平和を実現する目的で砂漠にあえて水路を引き、10年計画で地域農業を復活させるリーダーとなり「利他」に生き、亡くなった。今回のコロナ戦争では、普通に仕事をしてきた若き医師や医療従事者たちも、突然このような死を覚悟した厳しい局面に直面しながらも、皆命懸けで戦っていった。
現在は、我々経営者が迫りくる大恐慌の中、会社存続を賭けて、お客さまと社員のために勇気と智恵を振り絞って全力で戦っている。ただ、敵は我々を意図的にバラバラにして自滅させることにより勝利していく。この間の日本の中小企業や商店主は、自らの目先の損得をあえて捨てて、自らの意志で感染拡大を防ぐための「利他」の気持ちで一致団結して数カ月間の厳しい自主閉鎖を行い、コロナ第一段階は終息した。
45年前、最強国家・米国は、分断国家ベトナムになぜ負けてしまったのか。一つは米軍にとって想定外のゲリラ戦、もう一つはホーチミンの下、当時のベトナムの人々が「一人は万人のために、万人は一人のために」の理念でまとまり戦い続けたからだ。
私たちは長い歴史の中で、自然の持つ恐ろしさをなだめながらも、その素晴らしい長所を生かしてやがて世界一の長寿企業大国となった。その経験を生かして日本人の持つ優れた中庸の心で「産業と人間の幸せが一致する新たなポストコロナ社会づくり」を目指して、冷静に頑張っていこう。
このコロナゲリラ戦争で、自らをいかに「守る」かについては、既に議論は尽くされているが、遺伝子情報系(自然)から見れば、私たちは「免疫力」という優れた武器を既に持っている。その免疫力を上手に向上させる簡単な方法がある。毎日お風呂に15分以上ゆっくり浸かりストレスを解消すること、家でも会社でも皆が「笑顔」を絶やさないようにすることだ。我々社員全員で実践している。
【企業メモ】1832年(天保3)福岡・八女で創業。当時の有馬藩に木ロウを納入する。以来、ハゼの実や昆虫などから採れる天然ロウを原料とした製品の研究開発、製造販売を行う。かつてのロウソク、鬢(びん)付油などから、現在は高級化粧品、情報記録などのハイテク分野まで多岐にわたる。国内外でのロウの原産木の植樹などにも力を入れている。セラリカはスペイン語のCERA(ロウ)とRICA(豊かさ)を組み合わせた造語。
知名度ではなく、コミュニティー時代に備えて
河合電器製作所社長 佐久真一氏
顔の見えない組織から、顔の見える組織との取引にビジネスが変化していく。自分たちが使ったお金が、正しく使ってもらえているだろうか。個人の消費は、確実にこの流れになってきている。BツーBでも段々と、いかにもうかるか、からお互いにこのビジネスによって、お互いの心が豊かになるだろうか、そんな問いを立てた取引に変わっていくだろう。メディアで有名だから買うのではなく、顔の見えるコミュニティー内での消費に変わっていく。
私は4代目の社長だが、社長になってからずっと「あなたと一緒に仕事したい!」とお客さまから言われるよう、社員たちの人間的な成長に力を注いできた。仕事が早い、クリエーティブな仕事ができる、だけではなく、社内外問わず、人としての心の在り方が、一番の土台になるものだからである。
「製造業をおもしろくしよう!」を合言葉に、「どんなに要請があっても大量にモノを作らない」「人を増やさない」「新興国、発展途上国でのモノづくりをしない」。この3点を貫いてきた。アベノミクス時代、これを守る決断が本当に大変だった。日本に1泊3日の日程で、米国から世界的に有名な企業のディレクターが乗り込んできて「他の仕事を止めてでも、私たちに人手を確保しなさい」と要請されたり、日本の巨大企業からも「あなたたちの製品がないと、日本の主要産業が世界に負ける、だから今の10倍の製品を作って」などと何度も交渉にこられたりした。世間の常識ではありがたいと思える状況だが、それでもずっと「NO!」と言い続け、ありとあらゆる可能性、代替案を社員である仲間たちと一緒に、考えに考えてきた。
つまり、生活、余暇を楽しむためにお金を得る“手段”としての仕事ではなく、天から自らに与えられた能力をどのように生かし、社会をよくしていくか、が仕事であることを、人生をかけてチャレンジしている。要請されて作るだけでは、本当のモノづくりの楽しさは味わえないし、創造性も発揮しづらいと考えているからである。
私は教育者でありたかったので、社長というより、組織を自分のアート作品として考え、自分なりの世界観を少しずつ世の中に伝えている。働くことで、ネガティブな感情、ポジティブな感情、いろいろな感情がわき起こるが、それを全部ひっくるめて、仕事は本来、心が躍るものであるはずだ。そして、人には無限の可能性がある。しかしながら個々の与えられた能力は有限でもある。だからこそ創造性が必要である、とあらゆる人に自分の体験を踏まえながら伝えている。
子どもは親の姿を見て育つ。その親がつまらなさそうに働いていたら、社会に出るのも不安になってくる。「一隅を照らす」の心で、自分たちの周りの人から、まずはチャレンジすることに楽しさを感じ、時間の概念を外し、人生を探究する、そんな大人であってほしいと願う。
これから、よりデジタル化が進み、ビジネスの道具は変わってくるが、どんなに人工知能(AI)が発達しようとも、人は人により磨かれ、心が豊かになると思う。変わらず会社の仲間たちと邁進(まいしん)していきたい。それが企業存続の唯一の方法だと心から思っている。
【企業メモ】1929年(昭4)名古屋市昭和区で創業、ハンダゴテなどの製造を始める。戦後、工業用電熱機器、エアコン用ヒーター、調理家電などに事業を拡大。電気ヒーターといった製品提供だけでなく、「意思がある、ものづくりを。」をビジョンに掲げ「熱技術に関するコンサルティング」を目指す。第1回「働きやすく生産性の高い企業・職場表彰」(2016)において最優秀の厚生労働大臣賞受賞。緊急事態宣言解除に伴い、新しい生活様式を取り入れた柔軟な対策を実施中。
100年経営の会 勉強会
近江商人に関する研究報告(中)(全国近江商人系企業の調査研究)
静岡文化芸術大学准教授(100年経営の会顧問)・曽根秀一氏
近江商人研究が増えだしたのは、CSRがもてはやされるようになった1990年代後半から。老舗研究についても同様で、リーマン・ショック以降の2010年にも増えた。
研究の当初はなぜ近江商人が出てきたのか、から始まりさまざまな議論がなされている。近江は他国に比べ商業が盛んであったこと、陸運・水運を使え、東海道と北国街道があり東西南北を往来できる強みがあることなど。創業のための元手金を有する、ある程度豊かな村々が多かったことも重要だろう。街道が通っていて、情報や知恵も入ってくる。特産物があったことも大きなポイントだ。
特徴的な、三方よしという言葉は「売り手よし、買い手よし、世間よし」で、売り手が自己の利益を得る、買い手が満足するよう配慮する、地域社会の発展や福利の増進に貢献する、といった意味合いだ。00年代以降、これが独り歩きをするようになった感もあるが、気をつけなくてはいけないのは、かつての近江商人が三方よしという語を使っていたと思いがちなことだ。近江商人研究の滋賀大の宇佐美先生(名誉教授)の指摘によれば、実は、三方よしという日本語は近世には存在しない。近代になってからの造語だ。
その由来となると中村治兵衛宗岸の書き置きに「他国へ行商するも総(すべ)て我事のみと思はず、其(そ)の国一切の人を大切にして、我利を貪(むさぼ)ること勿(なか)れ」とある。これが世間よしにつがる。学術的には、当時誰も三方よしという言葉を使っていないということが、最近知られるようになった。
また、近江商人の家の多くは、商人にとって今昔にかかわらず大切なことは信用である、そして信用の元は正直である、といったことを言い伝えている。人に知られないように善行を施す「陰徳善事」という言葉も知られる。人に知られないように善行を施すこと、つまり陰徳はやがては世間に知られる陽徳に転じる、という考え方だ。近江商人のすごいところはもうけたものをきちんと地元に返すこと。治山治水や道路改修、貧民救済などを盛んにやってきたと感じる。
(2020/6/9 05:00)