[ トピックス ]
(2017/10/6 05:00)
「生命の設計図」とも言われる全遺伝情報(ゲノム)を自在に変えられる技術「ゲノム編集」が注目されている。今年のノーベル生理学医学賞における事前予想の最有力候補もゲノム編集。その中でもゲノム編集の利活用を一気に拡大した技術「クリスパー・キャス9」には、日本の研究成果も生かされている。一方、利用が進むにつれ生命倫理をめぐる議論も活発になってきた。ゲノム編集の現状と今後を探った。(安川結野、編集委員・山本佳世子)
塩基配列「クリスパー」、発見者は日本人
クリスパー・キャス9は、ジェニファー・ダウドナ氏とエマニュエル・シャルパンティエ氏が2012年に発表。既存のゲノム編集手法と比べて、操作したいDNAを狙って操作可能で、簡単かつ高効率に目的の遺伝子を改変できる。同技術の登場で、農作物の品種改良や医学分野などの幅広い研究分野でゲノム編集が使われるようになった。
細胞の核の中にあるDNAは遺伝情報を保存している。DNAを構成する4種類の塩基(A、T、G、C)の並ぶ順番(塩基配列)が遺伝情報となる。ゲノム編集では標的となる塩基配列に人工の酵素が結合し、DNAを切断する。
DNAの切断部位では修復機能が働くが、同酵素が繰り返し切断を行う中で修復エラーが起きる。このエラーを利用して遺伝子としての機能を失わせたり、切断部に別の塩基配列を挿入して遺伝子を改変したりするのがゲノム編集の特徴だ。
クリスパー・キャス9技術には日本人の研究成果が生かされている。同技術が利用している特徴的な塩基配列「クリスパー」を発見したのは、九州大学の石野良純教授だ。石野教授は87年、古細菌のDNAに特徴的配列が規則正しく繰り返されていることを示した。
後にこの配列がクリスパーと命名され、クリスパー間の配列は過去に細菌が感染したウイルスなどの遺伝情報を保存していることが分かった。ウイルスなどが再び侵入した際、クリスパー間に保存された配列をもとにキャス9酵素が病原体由来のDNAを切断、攻撃する。ヒトの獲得免疫のような働きだ。細菌が持つ特定の配列を認識して切断する仕組みを応用し、クリスパー・キャス9が開発された。
農林水産分野での応用−遺伝子組み換えではなく 作物「元々の力」強める
農林水産分野の作物育種でゲノム編集技術の応用開発が進んでいる。府省連携の研究支援事業「戦略的イノベーション創造プログラム」(SIP)でも取り組んでいる。
一般に消費者は遺伝子組み換え作物への不安が強いが、これは本来は対象の作物にない有用遺伝子を導入し、新たな形質を付け加えるためだ。しかしゲノム編集なら、紫外線などで起こる突然変異を作物育種に生かすのと流れも似ており、心情的な抵抗は弱い。
日本でゲノム編集の利用が最も進んでいるのがトマトだ。筑波大学生命環境系の江面浩教授らは、リラックスや血圧上昇抑制の効果がある「γ―アミノ酪酸」(ギャバ)に注目。ギャバ生合成酵素の活性中心を覆う“ふた”をゲノム編集で除き、「元々の作る力を強める」(江面教授)ことで、ギャバを野生型の15倍含むトマトを作り出した。
日本にとって重要なコメでは、農業・食品産業技術総合研究機構が超多収イネに取り組む。もみが増え粒が大きくなるよう二つの遺伝子でゲノム編集し、隔離農場で育てている。農研機構の小松晃上級研究員は「医療応用では正確さが強く求められ間違いが許されないが、育種は(偶然に起こる)変異に依存しておりむしろ逆」と作物応用はハードルが低いと説明する。
水産業での応用はマダイやトラフグなどの高価格養殖魚がターゲット。京都大学大学院農学研究科の木下政人助教らはウシで知られる筋肉増加の関連遺伝子を破壊することで、体重が倍近い個体を創出した。
作物のゲノム編集で実用化が最も早いのは米・デュポンによる工業用トウモロコシとされ、数年以内に発売の見込みだ。米国が持つ基本特許のライセンスを受けつつ、日本の作物の特許を活用するといった戦略が、将来は重要になりそうだ。
ヒト受精胚編集で物議−生殖医療への応用に危機感 研究自体が頓挫も…
「ゲノム編集は日常的に使える技術になりつつある。言い換えれば、ゲノム編集を使わないと生命科学の研究では戦えない」。16年4月に発足した日本ゲノム編集学会の山本卓会長(広島大学大学院理学研究科教授)は、クリスパー・キャス9の登場で急速に活用が進むゲノム編集の現状をこう説明する。
だが、生命の設計図が改変可能なゲノム編集は、倫理的な問題も引き起こしている。15年4月、中国の研究チームがクリスパー・キャス9でヒトの受精胚をゲノム編集し、血液疾患の原因遺伝子を改変したことを発表して物議を醸した。
生殖細胞のDNAをゲノム編集で書き換えると、遺伝情報の変化が子孫代々受け継ぐことになる。また、親が生まれてくる子の容姿や運動能力などを事前に遺伝子操作して決めてしまう、いわゆる「デザイナー・ベビー」の誕生につながる懸念もある。
日本国内でも医学・医療領域でゲノム編集の取り扱いについて検討が重ねられてきた。9月に日本学術会議は、医学・医療分野におけるゲノム編集技術のあり方検討会で、生殖医療の臨床応用を想定した基礎研究は控えるべきだとの提言を発表した。大学などの研究機関は、ゲノム編集技術を使った研究について臨床応用を想定していないかを倫理委員会で審議し、提言に沿って研究を進める。
ただし、こうした指針は法的強制力はないため、クリニックなどによる独自のゲノム医療は取り締まることができない。「独自に行われたゲノム医療で事故が起きてしまったら、医療分野におけるゲノム編集の研究自体が頓挫してしまう」と日本学術会議の委員は懸念する。厚生労働省へ法整備の働きかけも検討するという。
(2017/10/6 05:00)