産業春秋／『遠野物語』から現代を望む

幼い頃、山深い集落にある祖母の生家を訪ねた時のこと。「子どもが１人で山に入ると天狗（てんぐ）にさらわれる」と祖母から真顔で諭された。架空と現実の境目が曖昧な物言いは天狗さらいの伝説より恐ろしかった。

今年は民俗学者、柳田國男の没後６０年に当たる。柳田が岩手県遠野地方に伝わる妖怪、神様、幽霊などにまつわる逸話や伝承を記した説話集『遠野物語』を読み返し、祖母の記憶がよみがえった。

新興感染症の７割は野生生物起源の病原体によるとされる。低緯度地域での乱開発が発端となり、抵抗力のない人や動物が病原体と遭遇すれば壊滅的な被害を受けかねない。コロナ危機はその序章かもしれない。

人類は温暖化や気候変動、核の脅威、貧困、人権、エネルギー・食料危機などの共通課題に解決策を見いだせずにいる。「プーチンの戦争」は、そうした弱みにつけ込み脅しをかけてくる。

「願はくはこれを語りて平地人を戦慄（せんりつ）せしめよ」。柳田は遠野物語の序文で明治に入り何事も西洋的解釈で解決しようとする都会人に警告する。妖怪伝説が暮らしに根付いていた時代は、自然への畏怖が薄れた現代より貧しくとも豊かな精神性を宿していたのでは。足るを知る時か。