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(2018/9/8 07:00)
彼の名は「さかい三十郎」。正義感にあふれた庶民派である。そんな彼が出張時に出会ったノンフィクションのハプニングを「小さな事件簿」としてつづったのが本連載である。
「本当にそんなことが起こるの?信じられないなぁ…」との思いで読まれる方も多いかもしれないが、すべてノンフィクション(事実)なのである。彼の大好きな「映画の話」もちりばめてあるので、思い浮かべていただければ幸いである。
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三十郎が海外出張で経験した小さな事件の数々を紹介させていただきたい。いやぁ本当に“ドラマチックな出来事”に出会った。
自動車事故にご用心!
(サウジアラビア王国1982年・台北1989年)
サウジアラビア王国にプラント建設工事滞在時(1982年)は、専属の車と運転手を与えられ後部着席を励行していた。当時は海外・自動車事故による日本人派遣者死亡事故が多発していたため、とられていた安全マニュアル。皆さんも海外出張時の移動は、ゆめゆめ経費節減と称して小型車に相乗りしたりしないように。
台北国際機械展任務完了後(1989年)、市内から国際空港までタクシーで向かった時のこと。日本では経験のない大雨や嵐の中、高速道路をスリップ事故など気にすることなくブッ飛ばす大型タクシーの運ちゃんに出会った。前方の車が水煙で見えないので視界は約5~10m。確かにETD(出発時刻)は迫っていたが全身に冷汗を感じた。こんな時は慌てず出発便を遅らせた方がよい。
細菌事件?
(北京国際機械展2003年4月)
1月より準備を始めていたが出発前にSARS事件が勃発。日本出展企業の対応もまちまちで、参加中止する企業や現地スタッフのみで対応するなど制限がされた。三十郎の会社では明確な指示がなく、自ら北京に向かう者、出張自粛を申し出る者に区分された。三十郎は前者である。関西空港から飛び立った機内のクルーは全員マスク着用であった。出発前に薬局で購入したマスクは複数持参していたが、物々しい雰囲気に多少焦ってきた。
北京空港到着後も、入管手続きの異様な人なみに驚いた。皆がマスクを利用し押し黙り、まるで細菌映画場面だ。
しかし現地の人々はマスク着用など頭にない。ホテルから歩きなれた国際展示場まで向かうが、小生のマスク姿に異様な眼差しを向けていた。結局会場作業時には苦しくなり、思い切って外した。先の命より、今の苦しさからの脱却を優先してしまった。
周囲を見回すが日本人はいない。重機の黒煙・木造作の粉塵など最悪の空気環境の中、不安・孤独・寂しさが込み上げてくる。
何とか帰国し工場に勤務するも白い目で見られる。自宅からは1週間帰宅しないようにとの要請。業界の部会に出席し展示会の状況を報告した時も、参加メンバーが不安げな顔でいた。むしろ帰国後の方が孤独だったかもしれない。
二つの映画を思い出した。“カサンドラ・クロス(1976年ジョージ・コスマトス監督)”。世界保健機構(WHO)本部爆破未遂のテロリストが細菌に感染する。逃げ込んだ列車で乗客1,000人ともども抹殺を図る当局の暗躍。
“アウトブレイク(1995年ウォルフガング・ペーターゼン監督)”。アフリカで発生したペスト以上のウイルスが、猿によりカリフォルニアへ伝染・蔓延する。地域住民の抹殺が企てられるが、密かに対応準備されていた血清により助かる。
アラビアのロレンスかダイ・ハードか?
(再びサウジアラビア王国1982年~83年)
アルジュベール・インダストリアル市郊外にプラント(メタノール)建設することになり出向いた。当時の三十郎は毎日のように飲み歩いていたので、この国に派遣されるのは困惑したが、社命は致し方ない。隣国ではイライラ戦争(イラン・イラク戦争1980年~88年)も勃発し、中近東地域に乗り込むのは戦場に向かうようなものであった。出張中に会社から危険手当が支給されるが“100円/日”、会社員の命の値段はこんなものか。
休日(イスラム圏では金曜日)に宿舎(キャンプ)から市内に出ると、アラビア語で放送が流れてきた。現地スタッフに確認すると“犯罪者の見せしめ刑”が町の広場で行われるらしい。日本の通勤電車内の痴漢冤罪事件も真っ平御免であるが、海外ではさらに慎重に行動するように。“眼には眼を……”の刑が待っている。
死に直面した事件も。総務・勤労・資材に安全衛生も兼任していた三十郎に、フィリピンドライバーから大型クレーン故障報告が届いた。現場に出向くとブームがスムーズに伸びないらしく、クレーン操作を始めた。しかし車体固定(アウトリガー)をしないで操作したため、クレーンが倒壊してきた。三十郎の目前30cmに、しばし呆然……。この状況は今も夢の中に出てくる。
(雑誌「型技術」三十郎・旅日記から電子版向けに編集)
(2018/9/8 07:00)