(2022/5/5 05:00)
古代中国の政治家・屈原(くつげん)は、春秋戦国を代表する文人だ。強大な隣国・秦に脅かされた楚は、属国になるか別の大国と結んで対抗するかで国論が割れていた。対抗派の筆頭である彼は政争に破れ、流罪となる。
『漁父辞』は、まだ漢詩の形が確立していない時代に屈原の孤高と硬骨を示す文と伝えられる。「世を挙げて皆濁り、我独り清らかなり。衆人皆酔い、我独り醒(さ)めり」―。その清廉さは今日的な感覚では痛々しいほどだ。
春秋戦国時代の中原諸国は生き残りをかけ、権謀術数を競った。戦争も講和も、裏切りも数知れない。こうした抗争への反省から現代の安全保障ルールが生まれたが、ウクライナ侵略を見るとまるで古代に戻ったかのようだ。
屈原の主張は、軍事同盟による「自主国防」。日本の近・現代史の中でも愛国者から高く評価され、模範のように言われることが多い。
配流の先で母国の首都陥落を知った屈原は「寧(むし)ろ湘流に赴きて、江魚の腹中に葬らる」という『漁父辞』の決意のままに、汨羅(べきら)に入水自殺した。後世の民衆は、命日である5月5日にもち米を包んで川に流し、その無念を慰めた。「ちまき」の起源という。現代の我々はこの故事から何を学ぶべきだろうか。
(2022/5/5 05:00)